UCI ギア比制限差し止め劇:ベルギー当局が規制を封じた舞台裏と広がる意味

はじめに

2025年、UCI(国際自転車競技連合)は、プロロードレースにおいて使用できるギア比の上限を設定する「Maximum Gear Ratio Standard(最大ギア比標準)」の試行を導入しようとしました。目的は「選手が極端に高いギアを使って速度を出しすぎるリスク」を抑制し、安全性を高めることとされていました。
ところがこの規制案は、主要コンポーネントメーカー SRAM(特に “10 歯カセットを使うグループセット”)を直接制約する内容だったため、ベルギー競争当局(BCA: Belgian Competition Authority)が介入し、規制の適用を差し止める命令を下しました。これによって、2025年ツアー・オブ・グアンシー(Tour of Guangxi)でこのギア比テストを行う計画は中止され、UCI は抗告と見直しを迫られることとなりました。
この一連の出来事は、単なる技術規制の是非を超えて、自転車競技ガバナンス、競争法との関係、技術革新と安全性の均衡、競技産業構造への影響など、多くの論点を内包しています。

背景:UCI の狙いと規制案の内容
なぜギア比制限を導入しようとしたか
UCI は、年々向上する機材性能に伴い、レース中のスプリント区間や下り区間での速度が上昇し、安全リスクが高まる可能性を懸念していました。高ギア、特に 54×10 のような展開長が “過度な速度を出す装置” になりかねないという見方が、技術規制導入の根拠とされています。
この規制案は、ギア比があまりにも高くなることで「選手がコントロールを失う」「落車リスク増大」「機材耐久性への過負荷」などを抑えようとする、安全志向の政策として提示されました。
規制案の実質内容
公表された案によれば、UCI は「最大ギア比 = 54 歯チェーンリング × 11 歯スプロケット(すなわち 10 歯カセットを除外)」を上限とする構成を基準とすることを検討していました。これにより、従来広く使われてきた 54×10 構成(10 歯カセット) を事実上制限対象にすることになります。
この規制は、技術ルールとして「テスト段階」で導入されるという形式をとるとされ、最初は大会限定で試行し、その後適用範囲を広げる設計でした。たとえば、ツアー・オブ・グアンシーでの試験導入が予定されていました。
ただし、この案には重大な構造上の偏りが指摘される部分がありました。
ベルギー競争当局(BCA)の判断と差し止め
BCA の差止め命令とその理由
2025年10月9日、BCA は UCI のギア比制限案に対して暫定差止め措置を命じました。これは、Tour of Guangxi におけるギア比テストを停止させる実効力を持ちます。
- 透明性と手続きの正当性の欠如
BCA は、UCI による規制採用手続きが「客観性・透明性」を欠いたものであり、十分な説明責任や関係者協議がなされていないと指摘しました。特に、技術基準制定の際に意見公募や影響分析が不十分であった点が問題視されました。 - 不均衡な影響と差別性
BCA は、規制案が SRAM に対して「不当な競争制約」を課す可能性が高いと判断しました。SRAM は唯一 10 歯カセットを提供している大手メーカーであり、この規制によって不利なポジションに追い込まれる恐れがあるという論点が強調されました。 - 回復不能な損害(irreparable harm)
BCA は、SRAM およびその契約先チームが負う可能性のある損害が「回復困難」であるとの見方を示しました。すなわち、規制導入後にその立場を取り戻すのが難しいというリスクを重視した判断です。 - 比例性と競争法との整合性
技術基準は合理的な目的(安全性確保など)を持つべきですが、それを達成する手段が競争制約を過度に招いてはならない、という「比例性」の原則が重要視されました。BCA は、UCI の制限案がこの比例性原則を逸脱している可能性を示唆しました。
これらをもって BCA は、UCI に対し「最大ギア比制限の即時停止」と、それに類する技術規制を大会に適用しないことを命じ、違反時には罰則措置を含む制裁も講じ得るとの警告を添えました。
UCI の反応と抗告意向
UCI はこの命令を受け、「ツアー・オブ・グアンシーではギア比テストを実施しない」などの即時対応を表明しました。
同時に、UCI は抗告を表明し、規制案の見直しやプロトコル修正を検討する姿勢を示しています。彼らはこの措置を「安全性向上のための試験」であると位置づけ、その正当性を主張しつつ、競争法的整合性を再構築する必要に直面しています。
また、UCI は SafeR(選手主体の安全委員会)との共同設計でこの技術規制を進めており、規制は単独の決定ではない旨を主張しています。
SRAM の戦略と主張:競争・イノベーションと安全の板挟み
法的戦略:訴訟と反論
SRAM は 2025年9月下旬、BCA に対して正式な抗議を行い、UCI のギア制限案に法的挑戦を仕掛けました。彼らは「規制が市場競争を歪める」「技術革新を抑制する」「公開議論が不十分だった」などを主張しています。
また、SRAM は訴訟の中で、UCI の対応に対して「選手・チーム・メーカーが意見陳述する機会が十分与えられていない」点を批判しており、ルール制定プロセスの透明性を強く要求しています。
イノベーション vs 安全性の主張
SRAM CEO ケン・ロウスバーグ(Ken Lousberg)は、今回の規制案が「革新を抑えるもの」であると明言。「Innovation and safety are not opposing forces(革新と安全は対立しない)」という言葉を掲げ、規則制定プロセスの開放性を強く訴えました。
さらに、SRAM はこの案が自身の 10 歯カセット技術を直接制約するものである点を強調。多くのワールドツアーチームが既に SRAM のグループセットを使用していることを挙げ、「チーム・選手に不利益をもたらす規制だ」と主張しています。
このように、SRAM は安全論を否定するわけではなく、「規制手法の不透明さ」「影響公平性」「既存投資の保護」を訴える戦略をとっています。
技術・競技行政・市場における論点
この事件を通じて、ロードレースと自転車産業の交点で問われる論点は多岐にわたります。以下、いくつか主な論点と私見を示します。
1. スポーツ規制 vs 競争法:境界線の曖昧性
UCI のようなスポーツ統括団体が技術基準を設定する際、しばしば「競技ルール → 技術的枠組み」の論理で動きます。しかし、それが「市場構造に影響を与える技術基準」になると、その規制は競争法の枠組みにも触れる可能性を持ちます。今回、BCA はまさにその「スポーツ内規制 vs 産業規制の境界」にメスを入れた形です。
このような二重規律構造は、今後自転車競技技術規制が国際化・産業化する中で、透明性やルール制定プロセスのガバナンスが問われる局面になるでしょう。
2. 安全性と技術制御のバランス
ルールによって選手の最高速度や機材性能を制限する方向は、一定の安全性効果をもたらす可能性があります。しかし、安全性向上を理由に技術進歩を抑制してしまうと、競技としての魅力・技術革新可能性を削ぐことになりかねません。
理想的には、技術規制は「最小必要限度」で設計され、影響分析、代替手段検討、段階導入、モニタリング制度が付随すべきでしょう。今回の差し止め判断は、まさに UCI がその手順を適切に設計できなかったことを突かれた形といえます。
3. 製品差別化とメーカー参入の阻害
今回の案は、10 歯カセット技術を提供する SRAM にのみ実質的な制約を課すものでした。他の主要メーカー(Shimano、Campagnolo など)は 10 歯構成を採用しておらず、規制対象にはならない構造でした。これは「特定ベンダー排除規制」と批判される余地が高く、BCA もこの点を重視しました。
技術基準が、特定メーカーを排除する形になると、製品差別化や新規参入を阻害する可能性があります。競技用品としての自転車/パーツ市場は競争構造を伴う産業でもあるため、この点の公平性が問われました。
4. 地域管轄の影響力とスポーツルールのグローバル性
今回、ベルギーの当局の判断は、他国や EU 全域に波及する可能性を持ちます。EU加盟国は競争法枠組みに連動しており、一つの国の競争当局判断が他国にも影響を与えるケースは少なくありません。
UCI は国際統括団体ですが、加盟国法制・市場法制度の下での規制適用には慎重さを要することを今回示した格好です。技術基準を国際的に調和させつつ、各国法制度を侵さないルール制定設計が今後求められるでしょう。
今後の展開と予測
この差し止めは暫定的なものに過ぎませんが、以下の焦点が今後の動きを左右すると見られます:
- UCI の抗告結果とプロトコル改訂
UCI はすでに抗告を表明しており、規制案を見直す可能性があります。プロトコルを透明・客観的に設計し直し、影響分析を伴う改訂版を提示できるかが鍵となるでしょう。 - 最終的な競争法判断(本訴)
BCA の暫定判断は中間措置ですが、最終的には競争法的な判断(違法性の有無)が争点となります。ここで UCI の立場やルール制定手続きが裁定される可能性があります。 - ルール制定プロセス改革
今回の事態を受け、UCI や他のスポーツ統治機関が、技術規制設計時の協議・透明性・関係者参加制度を強化せざるを得なくなるでしょう。 - 他技術領域への波及
ハンドルバー幅制限、ホイール・リム深さ規制、ヘルメット規制など、UCI が検討中・導入中の他技術基準にも、同様の競争当局チェックや合憲性議論が波及する可能性があります。
結論:技術規制のゆらぎとスポーツ産業の成熟
今回のギア比制限差し止め劇は、自転車競技技術規制の「限界」を露わにしました。スポーツ規則としての安全制御と、競争法・市場自由の均衡をいかに保つか — これは今後のロードレース技術政策における最も核心的なテーマになるでしょう。
UCI は「選手の安全」という至上命題を掲げましたが、それを実現する手法が公平性や透明性を欠いていたため、BCA による差し止め判断を招いたとも言えます。技術規制の設計にあたっては、合理性・説明責任・透明性・代替性・漸次導入 というプロセス設計が不可欠です。
未来においては、技術規制は試験ベースで段階的に導入され、関係者の意見を取り入れながら改定を繰り返すアプローチが求められます。競技と産業は切り離せない関係にあり、それぞれの利益と責任を調整する “ガバナンスの成熟” が、ロードレース界の次のステージを決定づけるでしょう。